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2008 4月11日 (金) 春
4ヶ月ぶりの更新になってしまいました。この間、クリスマス・お正月も無く、本日まで一日も休みなしに多くのことを勉強していました。これから先も体の様子を見つつ、同じような日々が続きそうです。お載せたい話はありますが、いずれまた。
4月10日(木)にTFMをいつものように聞いていました。なんとなく聞き流していると、歌手の中孝介さんがスタジオ内で生で歌い始めました。中さんのことは全く知りませんでした。(追記:中さんは大変恵まれた才能の方だったのですね。失礼致しました。)
”春”という詩でした。自分の感性と共鳴してしまった。その間雑念浮かばず。詩・声・ピアノの音だけをたどっていた。こんなに集中して音楽を聴くのは私としては珍しい。聞けてよかった。
春ですね。
(音が聞こえない方は右下の音量タブにカーソルを合わせると調節できます
2008 4月6日 (日) 医薬翻訳説明会
(以下は去年2007年10月13日に作成したものです。)
私の当所の目的は経済的自立です。いい年をした男が二十歳前後の青年のような生き様で情けなくもなるが、直視しなければならない現実。
自立の手段は2つある。一つはマッサージ師としての復帰。日々、自分の大腿部を使いマッサージの練習を続けている。しかし、冷静に今の自分の体調を考えると復帰は極めて難しい。
もう一つは医薬翻訳。マッサージ師復帰よりも成功の確率がやや高い。翻訳業界でも安定した収入が望める分野とのこと。だだし、実力ある一握りのエリート翻訳家のみの狭き門。
翻訳業界の情報を集め続けいて現状をすこしづつ把握しつつあります。
そんなことで、10月16日火曜日都内某所の翻訳専門の会社説明会に参加しました。参加者は6名。
一人目は日本語より英語を使う方が楽だと言う帰国子女。僕らからすると羨ましいと思えるのですが、それが、かなりの悩みらしいのだ。訴えるように語り、聞いているうちに通じてくるものがありました。翻訳家になるというよりも正しく美しい日本語を和訳から英訳、英訳から和訳と日本人として表現できるようになりたい。というようなことを述べていた。
2人目は英語堪能でドイツ語の翻訳もやりたいうという女性。おぬし只者じゃないなと見える現役バリバリのクールな女性。
3人目は現役医薬翻訳家の女性でより質の高い翻訳をするがため受講を考えているとのこと。医学部か薬学部卒で元研究者か、いずれにせよ理系出身であろう。
4人目は塾・予備校で講師をしていた男性。金融・経済を中心にした翻訳を目指すようです。
5人目の女性の経歴は分からないが見るからに才媛の風情。
その中に英検準2級の私は輝いていた。ある意味。掃き溜めの鶴ならぬ、鶴の中の土鳩(僕)。場違いなところに来てしまった。恥ずかしいったらありゃしない。
余談ですが、小説家の遠藤周作さんは作品の題材の対象として周囲の人物を観察してしまう癖がついてしまった。というような事を語っておられたと記憶します。
較べるのも恐れ多いが、自分はHPを作ってから半ば話題作りのために人を観察する癖がついてしまった。良いことなのか悪いことなのか。分からない・・・。
話を戻します。
説明会が始まると僕にとっての収穫が幾つかあった。
例をあげると
●特に医療機器の開発において欧米と日本を対比すると、現状では日本の方が進んでいる。ゆえに日本語→英訳の技術の高い人は仕事をもらえやすい。正確に日本語→英訳を出来る翻訳家が少ないとのこと。
●翻訳の時給
初心者翻訳家の場合 : 英→日 800〜900円/400字
日→英 8〜9円/word
プロの翻訳家の場合 : 1200円/400字 20日実働/月 15枚/日 計360000円/月
スタッフによる翻訳・業界の説明中、ネットや本からでは分からない情報をしいれ、感心していると、「それでは皆さん、これから簡単な翻訳をして発表してもらいます。」と先生はいたずらな笑みを浮かべいきなり宣告。ドキッ。
聞いてないよ。
しかも一番最初に発表させられた。
以下にそれを印します。英語の得意な人は簡単だと思います。Let’s Try!
1. She has written more than 20 novels.
(私の回答)彼女は20冊以上の小説を書いてきた。
(先生の回答)彼女は20冊を超える小説を書いてきた。
more than を”以上”と訳した僕の回答は誤訳。
翻訳では”超える”としなければ商品とは認めらないそうです。
2.The average weight and the average blood pressure increase.
(私の回答)
平均体重と平均血圧は増加している。
(参加者の現役翻訳家の方の回答)
平均体重が増加し平均血圧は上昇している。
翻訳家の方の訳を聞いていて、「うまい、そうか」と本当にかぶりを振ってしまいました。自分はincreaseを”増加”としてしか訳しませんでした。翻訳家の方は「体重が”増加”」とし、「平均血圧は”上昇”」と訳しました。もちろん、これが正解です。医学的文脈として適切です。言われてみれば簡単なことですが面白いと思いました。
翻訳とは地道で迅速に正確なニュアンスの伝わる文を構築していく仕事のようです。
丹精込めて農作物や草花を育てていくのと同じだなと感じました。
2008 4月6日 (日) アルバイトは造園業
(以下は2006年に作成したものでTOPページメイメニューから移動したものです。)
マッサージの専門学校の学費を稼ぐために、実家の造園業で2年ほどアルバイトをしていた。(全く甘えているようで恥ずかしいのですが)
実家のアルバイトとはいえ仕事であるからには身内であろうと甘えは許されなかった。
当然ではあるが、仕事中父に対しても敬語を使っていたし「親方!」と呼んでいた。
自分の技量が全くないせいでよく失敗もあり、怒られ、なじられもした。おかげで忍耐強くなった?ような気がする。
造園業は超肉体労働・美的センスもなければならない。マッサージの仕事も疲れますが、植木屋のほうが疲労度は大きい。
毎朝、一人暮らしの安アパートに迎えにきた軽トラックの独特なエンジン音を聞くと溜め息が出そうだった。誇張ではなく、アルバイトをやめた数年後しばらくこのエンジン音をどこかで聞くと焦燥感に駆られやや心拍数が上がってしまったほどでした。
もうとにかく仕事に行くのが毎日が嫌で嫌でなんとか出勤していた。
しかし、毎日毎日出会っていたのは人だけでなく、樹木、草花の植物、こちらからは一切文句も言われず傍らにいさせてもらえた。
仕事はきつかったが、癒しとか、やすらぐ、などのありきたりの言葉では正確に表現できないのですが草花のそばに居ることはさらに好きになりました。
木々、草花、土から微妙に香ってくる匂いが好きだった。特に、好きになったのはくちなしの花の香り。ほどほどに甘くやわらかい香り。無理難題な自己主張をせず。奥ゆかしい女性のような。控えめにたたずんでいるような。そんな姿が自分の心をとらえて放しませんでした。
今部屋に居るのですが、もう数年も接していないのにくちなしの花の匂いだけはいつでもはっきりと感じることができます。これは自分にとって密かに大切にしている感覚です。何の役にも立ちませんし自慢にもなりませんが。
ほかの思い出として、夏場の植木屋の仕事は大変。運悪く日陰に車を停車できなかった場合、直射日光をもろに受けねばなりません。伐採した木々を一人でトラックに満載に積み込む単調な作業をしていると積み込んだ木々の頂上で発狂して叫びそうになりました。この体験も誇張ではありません。
休息の時間になると日陰になっているアスファルトの道路の上で寝転んで休みます。とっても、ひんやりしているのです。さっきとはうって変わって、これはもう楽園と言っても良い。あまりに温度差が激しいので、そう感じるのです。
これは一般の仕事を持つ方やご婦人には絶対味わえない快楽です。でも機会があったら、地べたに寝転がる開放感を味わっていただけたらと思います。ほんとに気持ちいいのです。
私がアルバイトを通して知りえて良かったと思えるふたつの出来事です。
2008 4月6日 (日) 笑顔と笑い顔
(以下は2006年に作成したものでTOPページメニューから移動したものです。)
私は毎日数分間手鏡を見て笑顔をしてみます。男なのに。
以前
、なじみの中華料理屋の親父さんにお兄さん暗いんだよなーと突然言われ絶句しました。
何も客に向かって言うなよな胸にしまっておいてくれその言葉。と内心憤りを感じました。
その時期は職場の人間関係で長期間悩んでいたので醸し出ていたのでしょうね。言われた時はムッとしましたが今では気持ちを改めています。
やはり自分がどんなに苦しくても周囲の人まで暗くしてはいけない。うわべだけ・偽善的でも良いから笑顔・思いやりのある声
を使うように習慣づけるようになりました。完璧とは言えませんが。
ある栄養学者の本を読んでいましたら、著者は毎朝奥様と一緒に笑い声を意識的にあげるそうです。するとそのうち馬鹿らしくなって本当の笑い声になってしまうそうです。
ただし私はこれを試したことがありません。アパートで一人暮らしなため「あはは、うふふ」など毎日やっていたら隣人にそれこそ不安を与えてしまうでしょうから。
笑顔の習慣ができたら、今度は笑える場を自ら作り上げていく。
お笑い番組・ネット上の面白い映像などを見て聞いて大笑いする。
身近な人達に面白い話を進んでしてみる気持ちを持つ。プロの芸人さんのようなレベルの高いものでなく、ほんの少し笑えるような話題。ある方から教えられたことがあります。人を泣かせたり、怒らせるのは簡単。でも笑わせるのは難しい。笑わせるには相手の立場になり思いやる気持ちを持たなければできないと。
私の場合は月に一度通院する先生との面会が唯一、人との会話できる機会です。その診察の合間に先生を一瞬笑わせてみたいです。もう数年の付き合いになり、人間関係も信頼できるものになっています。いつもはまじめな受け答えしかしない自分が突然冗談を挟んだら、この患者は大丈夫か?と引かれてしまう懸念はあります。実際に実行するかはわかりません。
でも、そのために話題作りと鏡を見て顔真似の遊びをし始めました。自分は一体何をやっているのかと我に帰るとアホらしくて、自分を笑ってしまいます。難しく考えないで、自分と周囲が楽しいひと時をもてれば、それでいいのでしょうね。
笑うとナチュラルキラー細胞(がん細胞などの増殖を抑制)が増える。笑うとナチュラルキラー細胞が増えるという実験では、作り笑いでも ナチュラルキラー細胞が増加するとのことです。
また人体には交感神経・副交感神経より構成される自律神経があります。自律神経のつりあいが乱れると万病の引き金になります。笑っている時はこの自律神経の均衡が上手く保たれているようです。
笑いはお腹を使いお通じが良くなる。
血圧が低下、心疾患のリスクの軽減。
これらの習慣ならお金も時間もかかりません。
そして、なにより人は朗らかな人のそばに寄って行きたいものですよね。人間関係円滑の安上がりな方法かもしれません。
男の癖に軟弱だと言う思いが強かったせいか思春期の中・高校生時代でさえ、鏡で自分の顔をまじまじと見たり髪型をセットすることなどありませんでした。(坊主頭でしたから、今も坊主ですけど。)
いまさらながら毎日、こんな顔をしていたのかと見つめます。そしてよく見てみると結構いい笑顔しているんですよね。自分は笑顔の似合う人間だったんだ。
もっと早く気がつくべきだった。人生のちょっとした損失だったかな。人に嫌悪感を与えないほどのわざとらしくない自然な微笑ができるようになれたらいいですね。(2008年 追記:自分の感情を素直にだす。時と場所によりますが怒り・泣くことも人間として自然のことだと思います。心と体を安定させる為にも。)
2008 4月6日 (日) 両親の思い出
(以下は2006年に作成したものでTOPページメニューから移動したものです。)
植物のそばにいるのが好きだ。と言っても植物の詳しい育て方も名前や
種類もほとんど分からない。本家が造園業だったもので幼少の頃から店にあった子供には大きく感じる温室の中、訳も無く本能のまま遊んでいた。様々な植物と土の匂い・湿気が充満した空間。
子供ながらとても落ち着ける場所になった。これが原体験になっているのだろうか。ちなみにこのホームページのデザインも緑。買う服も緑系が多い。日常生活の中で無意識に緑を選択してしまい後にそれに気づくことが多々ある。
小学校低学年の頃から父が時折仕事に連れて行ってくれるようになった。 貸し鉢(レンタルの植木を配達する仕事)で、中小企業・ボーリング場 スナックなどに一人行かされ「植木屋です!植木取替えに来ました!」 精一杯威勢良く声を出した。
子供一人に任せて大丈夫なのかと思ったが「大丈夫だ。行って来い。」 と言われ仕方なく意を決してその言葉に従った。
またある時は露店として植木や草花を売る場に連れて行かれた。 父が商売しいるのを横でじっと見ている時間が過ぎた。 突然父がメシ食ってくるからお前一人で商売続けてくれと言ってきた。 当然驚いた。初めての経験だし、子供に任せていいの?と尋ねると 「ああぁ」と言って消えてしまった。
その後どきどきしいてると一人だけ男のお客さんが植木を買っていってくれたような記憶がある。その間、お父さん早く帰ってこないかなぁ。子供じゃ無理だよ。と何回も念じていた。
今思えば父が私のことを鍛えようとしていた親心だったことに気づく。
仕事で疲れきって帰宅すると晩酌をしながら、大好きな巨人戦の中継を見た後、怪獣のようないびきをかきながら寝てしまう。また若い当時から自然環境の優れた場所で花作りをする夢を抱いていたので仕事が休みになると、良い園芸家の噂を聞きつけては日本全国単身で勉強にでかけてしまう。普段から会話をする機会が少なかった。それゆえ、仕事の手伝いの行き返りの車中、子供の他愛もない話を聞き会話してくれるのが嬉しくて仕方なかった。余談だが、20代前半の父は南半球の某国へ渡り花作りをする準備をしていた。ところが、そんな折,交通事故にあい、大怪我をする。入院中、職員の美しい女性に一目ぼれ。生涯唯一の大恋愛をしてしまった。いつしかその女性に新しい命が宿り渡航をやめる。急遽結婚の運びとなる。父が交通事故に遭ったおかげで僕は誕生した。
20代の父は生き急いでいたのかもしれない。ある日突如、左手の握力が低下し見る見る腕が細くなってしまった。病院にいくと筋ジストロフィーと診断。当時、青春の只中にいた父の気持ちを察することはできないが、父が所有するアルバムの最後のページに筋ジストロフィーに関する新聞記事の丁寧な切抜きが貼ってあったのを思い出す。そんな父に対し祖父は「左手が使えなくても、右手が使える。両手が使えなくなったら、脚が使える。脚が使えなくなったら、這ってでも生きていける。生きるだけだったら蛆虫を食ってでも生きていける」と言い放った。言葉は悪く、多くの人に適切な表現では無いかもしれないが、父にとっては深い愛情を感じ、強い励みとなる。
父の30歳の誕生日に母が笑顔で伝えた。「お父さん。30歳まで生きれて良かったね。」母は父の病気を承知しつつ結婚したのだ。しかし、全き神聖な夫婦かと言えばそうでもなく、普段は子供が呆れるくらい、野性味のある大喧嘩もしばしばあった平凡な夫婦。幸いにも病気の進行はなく仕事に打ち込める日々が続く。そして、後年、主治医の誤診が判明、命に脅威を及ぼす障害では無いことが分かる。病気により翻弄された青春。医療を責める風でもなく、「俺の人生は一体なんだったんだ?」と父は素直につぶやいた。
人生に脚本があるのではないかと思える展開は続く。今度は32歳の母の体調が崩れる。白血病だった。本人には知らせなかったが、重病ということは承知していたはずだ。かつて自分の職場であった病院で約3年近くの過酷な闘病生活を送る。そんな厳しい状況の中、父は職場で身に覚えの無い致命的なトラブルに巻き込まれ晩年まで影響する人生に大きな爪痕を残す、それ自体にも対処しきれないうえに子供達を養い、母の高額な医療費を捻出しなければならなかった。身も心も極限にあった。そんな状態でも週2回、車で1時間かかる病院まで子供達を必ずつれて行った。お父さん偉いよ。またほんの少しだけ心の目が開かれた気がします。
面会に行くといつも母は笑顔で迎えてくれた。幼少の頃から愛くるしい顔立ちで陽気でひまわりのような人、学校の成績は首席で学級委員長、運動会ではリレーの代表に選ばれるほどの身体能力、芸術の才能もありピアノ・絵画も人並み以上。これだけ揃ってもやっかみをさほど受けず、多くの人に愛されてきた半生。それが一転、個室の病室で過ごした約3年間、医師・看護士以外と接することの無い一人きりの日々。子供だった僕はそんな人の心情を察する力はなかった。当時の若い父と母の心の中を二人の年齢を遥かに超えてしまった今の自分と重ね合わせ、わずかでも理解しようとこれを書き連ねている。
面会中、父や弟妹が母との会話をする時間を極力できるように譲る幼いくせに妙な気配りをしていた。ただ皆が楽しそうにしているのを見ているのが好きだった。一方週に何回か母が自宅に電話をかけてくれた。お互いにとって待ち遠しい時間であると同時に胸が押し潰されそうな切なさが直接会っている時より遥かに深かい。
僕が10歳になった頃のある日、母が酸素ボンベを携えて自宅での療養が始まった。家で暮らしたいと切実な希望により実現。とても嬉しいはずなのに、その時期の記憶がほとんど無い。覚えている情景はただひとつ。僕のわがままが原因で母と口論。非は完全にこちらにあるにもかかわらず、未熟な自分は暴言を吐いた。「お母さんなんて死んじゃえ!」
母は無言でいた。
大変な言葉を口にしてしまった。その場にいることに耐えられなくなり、ふすまを乱暴に開け飛び出した。でも瞬時に頭に浮かんだ。「母とはもうすぐ会いたくても会えなくなる」
急いで部屋に戻り土下座した。泣きながら「僕が悪かったです。すいませんでした」
母は言葉を発せずとても綺麗な微笑みを返してくれた。僕はまた部屋を飛び出した。(追記中)
父は豪快な人だった。仕事中、蜂に襲われたら普通なら身をかわすか
逃げるかするだろうが、たじろぎもせず「いてっ!」と言いつつも手の平で叩き潰していた。蚊じゃないんだから・・・・。
酒好きで、へビースモカー、陽気で、喧嘩早く、短気で、そして誰よりも純粋で優しさが際立っていた。冒頭で植物のそばにいるのが好きだと述べた。が、実は父のそばにいるような気がしているのかもしれない。
自分の住むアパートの2階窓の正面に名も分からない樹木の緑が色濃く、視線を落とすとつつじの花が鮮やかに咲き(2006年4月当時)、通りから聞こえる行きかう人々の生き生きとし声が眩しく、悲しいが妬ましくもある。
父と母にはもう会えないけれど試練を忍耐強く乗りきった人生の尊敬できる大先輩。二人が残してくれた貴重な生き様を大切に引き継ごう。与えられた情況で淡々と自分でもできることを(追記中) |
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